フラレン類とそれらの部分構造におけるケクレ構造数え上げのアルゴリズム
成田 進, 森川 鐵朗, 渋谷 泰一
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1 序論
よく知られている [1, 2] ことだが,ベンゼノイド炭化水素(BH)においては,ケクレ構造(古典的共鳴式)の数 K は,BH の化学的あるいは物理的性質や共鳴エネルギーに強く関係している。そこで,炭素の新しい同素体であるフラレン類に,古典的共鳴理論を適用し,その限界を知ることは興味のもたれることである。そのためにはまず,与えられたフラレン分子のグラフとその部分グラフのケクレ構造を数え上げる方法を確立することが必要となる。
BH におけるポーリング結合次数 Pは,その分子内化学結合の共役性を判定するよい指数 [3] として知られている。フラレン分子の分子グラフ M におけるケクレ構造の数を K(M) とする。M の 2 頂点を i と j とし,M の部分グラフ Mij を次のように定める。Mij は,M から頂点 i, j およびそれらの頂点に結合する全ての辺を取り除いたグラフとする。化学結合 i-j 間のポーリング結合次数 Pij はK(Mij)/K(M)に等しい。したがって,フラレンのPijを求めるには二種類のケクレ構造の数,K(Mij) と K(M) とが必要となる。
K を求める各種のアルゴリズムが報告されている [4] が,フラレン類とそれらの部分グラフに適用しようとすると,いずれの方法も短所がある。たとえば,コンピュータ計算のための明確な数理的表現がないとか,特殊な共役系分子(交互炭化水素)である BHにのみ適用できるとか,ケクレ構造の数だけを計算していてケクレ構造を表示しにくいとか,である。われわれはこの論文で,フラレン類を含む各種の共役分子とその部分グラフに容易に適用できる,Kを数え上げるアルゴリズムを組み立てた。こうして,フラレン類の Pij を計算した。
2 アルゴリズムとプログラミング上の要点
以下で述べるケクレ構造を数え上げるアルゴリズムは,再帰的な手順からなるので,再帰呼び出しを許すプログラミング言語を用いれば,比較的短いステップで簡単に書き下せる。しかし,再帰構造を許す言語(LISP や PASCAL など)の実行速度は,決して速くはない。そこで,再帰呼び出しは許さないが,実行速度の比較的速いプログラミング言語 Fortran 77 を用いてプログラムを作成した。あつかう数は,ポーリング結合次数を除いて,正整数である。
ヒュッケル分子軌道法で使われるヒュッケル行列 h は,化学グラフ理論 [4] では,隣接行列とよばれている。隣接行列の要素 h(i, j) は,i 番目と j 番目の原子が結合していれば 1 で,それ以外は全て 0 であり,対称行列になる。交互分子である BH では,h と K との間に特別な関係式 [5]があるので,それを Kの計算に使える。ここでの関係式では,まず,あたえられた分子グラフ M を h で表現する。すると,注目する原子とそれに接続している結合を除いた部分グラフ Mij は,対応する行と列を hから除いて得られる隣接行列で表現できる。この表現法を参考にすれば,次のような,一般の共役分子(非交互分子であるフラレンや交互分子である BH も含む)にも使える,K 計算のアルゴリズムを得ることができる。
入力データは以下のとおりとする。
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分子についてのコメント
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分子中の原子の総数 natom
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隣接行列 h
出力データは以下のとおりとする。
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結合定義テーブル ibatom: i 番目の結合がどの原子間結合からできているかを示す。
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結合連結テーブル ibndreslt:i 番目の結合のリンクの総数と,この結合がリンクしている結合の番号を示す。リンク数は高々 4 である。
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分子グラフのケクレ構造の総数を kekule とする。
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結合ごとのポーリングの結合次数を pbo とする。
[計算手順] 以下にプログラムの概略を示す。
(1)2重結合の数 ndblbnd を求める。ndblbnd に natom/2 を代入する。natomが奇数のときは計算を中止する。変数 kekule, pbo に 0 をセットする。
(2)隣接行列を解析して ibatom、ibndreslt と i 番目の原子にリンクしている結合 iatmval、bondstatus(あるボンドが二重結合として利用できるか否かを表す)の諸テーブルを求める。
(3)分子のケクレ構造は2重結合しているボンドの番号だけを集めた変数 icで表す。ic の要素の数は ndblbnd である。この ic の i 番目の要素を次のような手順で決めてゆく。
(3-1)ibndreslt、bondstatus をもとにして ic の i 番目の要素となりうる2重結合の候補を決定する。リンク総数の最大値は 4 なので候補の最大値も 4 となる。候補の中から1つ選び ic の i 番目の要素とする。残った2重結合の候補と候補の総数は後の使用のためにストアしておく。
(3-2)(3-1)で採用した ic の i 番目の要素にリンクしている結合をすべて取り除く。これは ibndreslt、iatmval、bondstatus の諸テーブルを更新することにより実現される。
(3-3)全く同様にして ic の i+1 番目の要素を決定する。このとき候補が見つからなかったら(3-1)に戻り,現在,選んでいる要素を捨ててストアしておいた次の候補を選び,(3-1)以下の操作を続行する。
(3-4)ic の要素がすべて求まったら、それを pbo に登録しておく。つまり,ic の要素に対応する pbo の内容を 1 だけ増やしておく。 変数 kekule も同様に1 だけ増やしておく。
(3-5)(3-3)に戻る。
(4)すべて調べ終えたら変数 kekule、pbo を出力しプログラムを終了する。
3 計算例
前記のプログラムを,各種のフラレン [6] に適用した。フラレンC60(truncated icosahedron, Ih対称性)には,その対称性から,2種類の結合(ふたつの6角形を融合する結合と,5角形と6角形とを融合する結合)がある。C60の2種類の結合に対する,ポーリング結合次数の計算結果は,5500/12500 =11/15 と 3500/12500 = 7/15 で, 文献 [7]と一致した。さらに,C70(D5h対称性で,対称性独立な結合は 8 類)のポーリング結合次数の計算をすると,赤道附近のふたつの6角形を融合する結合で14196/52168,5角形をつくる結合で14239/52168,14528/52168,18943/52168,極附近で 14528/52168 と23112/52168 で,2 種類が偶然に一致している。
本稿の一部は,化学ソフトウエア学会99年会(一橋大学 1999 年 10 月 3 日 )において,発表した。
参考文献
[ 1] S. J. Cyvin and I. Gutman, Kekule Structures in BenzenoidHydrocarbons, Springer, Berlin (1988).
[ 2] I. Gutman and S. J. Cyvin, Introduction to the Theory of Benzenoid Hydrocarbons, Springer, Berlin (1989).
[ 3] L. Pauling, L. O. Brockway and J. Y. Beach, J. Am. Chem. Soc., 57, 2075 (1935).
L. Pauling, The Nature of the Chemical Bond, 3rd ed., Cornell University Press (1960), pp. 234-239.
[ 4] N. Trinajstic, Chemical Graph Theory, CRC Press, Boca Raton (1992).
[ 5] N. S. Ham, J. Chem. Phys., 29, 1229 (1958).
[ 6] M. S. Dresselhaus, G. Dresselhaus and P. C. Eklund, Science of Fullerenes and Carbon Nanotubes, Academic Press, New York (1996), Also see references cited therein.
[ 7] D. J. Klein, T. G. Schmalz, G. Hite and W. A. Seitz, J. Am. Chem. Soc., 108, 1301 (1986).
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