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Figure 1. The observed deuterium-labeled positions of hydroxyindole derivatives
重水素によるラベル化の初期過程において、重水素供給分子がヒドロキシインドール類に接近する駆動力は、主としてクーロン力である。そのため、重水素置換位置の定性的な推定には、ヒドロキシインドール類の分子内の各原子の電荷分布が極めて重要であると考えられる。
本研究では、水素置換位置の定性的な推定を行うために骨格原子の電荷分布に注目し、半経験的方法による最適化構造と最小基底を用いた非経験的分子軌道法により計算された骨格原子の電荷が、実験的に得られたヒドロキシインドール類の重水素置換位置を定性的に説明することを報告する。
Figure 2. Model molecules of hydroxyindole derivatives
非経験的分子軌道法にもとづく電荷計算は、通常 Mulliken のPopulation Analysisが用いられることが多い。しかしながら、この方法は基底関数依存性が大きいこと、また最小基底関数を用いた場合以外は、物理的描像に曖昧な点があることが知られている。そのため本研究ではMerzらの方法[3]を電荷計算に採用した。電荷計算のための分子軌道としては、大きな分子への適用を考え、最小基底関数(STO-3G[4])による制限ハートリーホック(RHF)法による分子軌道を採用することにした。電荷計算のためのプログラムは、Gaussian 94 Rev. B.3[5]を使用した。このように、半経験的分子軌道法による構造最適化及び最小基底関数を用いた非経験的分子軌道法による電荷計算方法を採択したことで、重水素置換位置の定性的推定のための計算に要する計算コストを大きく下げることができる。
Figure 3. The atomic charges of model molecules calculated by Merz-Singh-Kollman's method
ただしモデル化合物:8 については、計算された電荷の大きな位置すなわちアミノ基のオルト位と観測された置換位置(アミノ基のパラ位)は一致しない。これは置換基NH2の立体障害により、重水素供与分子がアミノ基のオルト位に近づくことができないためパラ位からラベル化されると考えることができ、重水素置換位置の定性的推定には立体障害の考慮が必要であることが示唆される。また、モデル化合物:8 の重水素置換において、アミノ基のパラ位を優先選択する他の理由として考えられることは、置換反応初期の中間状態の安定性である。重水素置換反応のごく初期の過程では、重水素供給分子の重水素がヒドロキシインドール類分子に接近し、水素結合などで安定化した中間状態を経ることが予想される。この際、不対電子対にある電子がこのような安定な中間状態を形成するのに重要な役割を果たすが、アミノ基には1つの不対電子対、水酸基には2つの不対電子対がある。これにより、最初の段階でラベル化供給分子が配位する事ができる可能性は、水酸基側がアミノ基側の2倍あることになる。また酸素原子は、フッ素原子を除く全原子中で最大の電気陰性度を有しており、窒素原子に比べ水素結合エネルギーが大きい。つまり、反応初期過程における中間状態の安定化が水酸基近傍で大きいことが予想され、そのためアミノ基のパラ位が優先的にラベル化されると考えることができる。
結論として、ラベル化位置の予測のためには、まず電荷分布の計算を行い、水酸基の隣接する骨格原子の負電荷が大きいことを確認する。その場合、そこに結合する水素がラベル化される可能性が高い。モデル化合物:8 のように、ラベル化される可能性が2つ以上存在する場合には、置換基による立体障害や配位結合に関る不対電子対の数を充分考慮する必要がある場合もあるが、ヒドロキシインドール類の重水素ラベル化の位置の定性的予測は、半経験的分子軌道法によって得られた分子構造と最小基底を用いた非経験的分子軌道法による電荷の計算結果により可能である。
さらに多くの例に対して、本方法の有効性を確かめること及び重水素置換のみでなく、ハロゲン置換位置の予測方法の開発等を今後の課題としたい。
また、ヒドロキシインドール類の重水素置換反応機構の詳細は明らかではないが、有機電子論的には求電子置換(SE)反応に分類されると思われる。そしてSE反応の配向性は、原子上の電荷密度ではなく、フロンティア電子密度を用いて論じることが定説となっているらしい。しかしながら、本論文では結果を示さなかったが、最小基底(STO-3G)を用いて非経験的分子軌道法によって計算されたフロンティア電子密度では、実験的に観測されたヒドロキシインドール類の重水素置換位置を全く再現することができなかった。これは、ヒドロキシインドール類の重水素置換反応が、単純な求電子置換反応ではなく複雑な反応過程を経ることを示唆している。ヒドロキシインドール類の重水素置換反応機構の詳細な研究は今後の課題である。
最後に、有益な示唆をいただいた論文審査員に深く感謝する。
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