アントラ[1,9-b,c : 4,10-b',c']ジクロメンの電子状態と そのエンドペルオキシド体の構造化学

渡部智博,太刀川達也,北原信孝,時田澄男


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1. 緒言

 アントラ[1,9-b,c : 4,10-b',c']ジクロメン(ADC) (1) は,トルエン溶液中では赤色であるが, 可視光を照射すると一重項酸素を付加して無色のエンドペルオキシド体に変化する.また, トルエン溶液中でエンドペルオキシド体を加熱すると,再び (1) が生成し,赤色に戻って ホトクロミック特性を示す.ADC (1) のエンドペルオキシド体の構造としては,下図の(2) と (3) の可能性が指摘されている[1].

 本研究では,半経験的分子軌道法計算により,ADC (1) の反応性を予測し,X線結晶構 造解析によってエンドペルオキシド体の構造を明らかにして予測の正当性を確認すること を目的とした.

2.方法

2.1 試料の調製
 化合物 (1) は,Schmidt らの方法1)で合成した.つぎに,(1) のトルエン溶液に 300 Wタ ングステンランプで光照射することにより光酸素付加反応を行った.得られた淡緑色溶液 を常温で減圧下溶媒留去し,その残渣を四塩化炭素に溶解し,暗所で徐々に溶媒を蒸発さ せることにより,エンドペルオキシド体の単結晶を得た.

2.2 半経験的分子軌道法計算
 化合物 (1) の初期構造は,市販ソフトウェアCAChe (ソニーテクトロニクス社) の分子力 学法 (MM2) で最適化して作成した.つぎに,この初期構造をもとにして,半経験的分子 軌道法である AM1 法と PM3 法 (MOPAC Ver. 6.01)[2] で構造最適化を行った.さらに,この ようにして得た (1) の構造をもとにして,エンドペルオキシド体の初期構造を作成し,半 経験的分子軌道法計算で最適化した.また,アントラセン誘導体 (4a) 〜 (4c) の電子状態 は PPP 法[3]で計算した.
 なお,ハードウェアは,IRIS INDIGO XS24 (Silicon Graphics 社製),ならびにPC9801 (NEC製) を用いた.

2.3 X線結晶構造解析
 単結晶X線結晶構造解析には,0.5×0.4×0.2 mm^3の大きさの結晶を使用した.反射デー タの測定はマックサイエンス社の MXC3K 四軸回折計を用い,室温で行った.線源はCu の Ka 線をグラファイトのモノクロメーターで単色化して用いた.3゜< 2θ < 140゜の範囲で, 5418 点の独立な反射点を測定した.初期構造は直接法より求め,2933 個の独立な反射点 を用いたフルマトリックスの最小二乗法で精密化した.

3. 結果と考察

3.1 化合物の同定
 アントラ[1,9-b,c : 4,10-b',c']ジクロメン (1) は,赤色針状晶として得られた.融点 201 ℃;IR (KBr, cm^{-1}) 3080, 1240;MS (m/e) 358 (M^+); ^1H-NMR (CDCl3/TMS, δ ppm) 6.71 (s, 2H), 7.05- 7.16 (m, 4H), 7.24 (dd, 2H), 7.44 (dd, 2H), 7.97 (dd, 2H), 8.54 (dd, 2H); UV- VIS (l_max/nm (log ε) トルエン中) 563 (4.10), 533 (4.12), 417 (3.79), 395 (3.52), 290 (4.58).
 (1) のエンドペルオキシド体は白色針状晶として得られた.IR (KBr, cm^{-1}) 3080, 1230, 1060;MS (m/e) 358 (M^+-O2); ^1H-NMR (CDCl3/TMS, δ ppm): 7.16 (s, 2H), 7.26- 7.40 (m, 8H), 7.60 (dd, 2H), 7.89 (dd, 2H); UV-VIS (l_max/nm (log ε) トルエン中) 323 (3.90), 307 (3.97).

3.2 半経験的分子軌道法計算
 アントラセン (4a) ,1-メトキシアントラセン (4b) ,および 1,4-ジメトキシアントラセ ン (4c) の HOMO の係数の絶対値は,図1に示すように,(4a),(4b) では,9, 10-位が大き く,(4c) では 1,4-位が大きかった.この計算結果は,(4a),(4b) が (5) 型のエンドペルオ キシド体を生成し,(4c) が (6) 型のエンドペルオキシド体を生成する実験事実[4]と対応し ている.一般に,この種の反応は,次のメカニズムで示される多段階反応で,縮合多環化 合物 A rまたは増感剤 S の励起状態 Ar* (または S )が基底状態の酸素 ^3O_2 を一重項酸素 ^1O_2 に変え(式(3)),これが基底状態のAr と反応してエンドペルオキシド体 ArPO を与える (式(4))とされている[5].


図1 アントラセン (4a) とその誘導体 (4b),(4c) の HOMO の係数の図示:

(4a) における1位の係数は -0.304,9位の係数は +0.438 に対応している.

                       (1)
                          (2)
   (3)
               (4)
一重項酸素は,Diels-Alder 型の素反応 (4) で基質に付加すると考えられている[6].そこ で,発色体 (1) のHOMO の係数の絶対値について調べてみると,12b 位と16b 位の係数の 絶対値が最大となっており,この位置に酸素分子が付加する事が予想できた(図2).ま た,AM1 法によるエンドペルオキシド体 (2) の生成熱の計算値は 95.2 kcal/mol,(3) の場 合は 101.5 kcal/mol であり,熱力学的にも (2) の構造が (3) より安定であるとの結果を得た (PM3 法による (2) の生成熱は 56.1 kcal/mol,(3) の場合は 61.3 kcal/mol であり,同様の傾 向を示した).


図2 AM1 法によるADC (1) の HOMO の係数     

3.3 X線結晶構造解析
 この実験で得られた (1) のエンドペルオキシド体単結晶は単斜晶系で空間群はP21/a,結 晶学的パラメータは,a = 15.610(3)Å,b = 25.314(5)Å, c = 7.382(2)Å, β= 100.66(2),V = 2867(1)Å^3であった.ユニットセル中には4分子のエンドペルオキシド体が含まれ,結晶 学的に独立な分子は1分子であった.結晶中には,エンドペルオキシド1分子に対し2分 子の割合で結晶化溶媒である四塩化炭素分子が含まれている.反射強度の測定はエポキシ 樹脂でコーティングした試料を用いて行ったが,徐々に結晶の劣化による反射強度の減少 がみられたため,解析の精度が悪く,最終のR値は13%であった.X線結晶構造解析の結 果より,エンドペルオキシド体はアントラセン環中央の12b 位と16b 位の炭素に酸素が付 加した化合物 (2) であることが確かめられた(図3).分子はその中央部のsp^3混成となっ た2つの炭素原子を結ぶ線に関して約120! の角度で折れ曲がっており,発色体の湾部にお ける1 位と16 位(ならびに,12 位と13 位)の水素原子同士の立体障害を解消している. 四塩化炭素分子はエンドペルオキシド体間の空隙に位置し,隣接分子との間に短い原子間 距離は存在せず,ファンデァワールス力以外の分子間力による四塩化炭素分子の繋ぎ止め は存在していない.炭素−炭素間,酸素−炭素間の結合距離,結合角について,X線結晶


図3 エンドペルオキシド体 (2)・2CCl_4 の ORTEP 図
  (左側の図では CCl4 を省略して描いてある)

構造解析のデータと計算結果とを比較検討した.この際,四塩化炭素が水素・炭素間以外 の結合距離に与える影響は小さいことがX線結晶構造解析により示されたので,四塩化炭 素を含まない計算データを用いて考察した.
 結合距離についての標準偏差は,AM1法とX線結晶構造解析との差では 0.038 Å,PM3 法とX線結晶構造解析との差では 0.026Å,であった.結合角についての標準偏差は,AM1 法とX線結晶構造解析との差では 1.05゜,PM3 法とX線結晶構造解析との差では 1.23゜で あった.結合距離については PM3 法,結合角については AM1 法が X線結晶解析のデータ をより良く再現している.また,付加した 2 個の酸素原子の原子間距離の実測値は 1.500(9) Åであり,AM1 法によって得られた原子間距離の計算値は 1.303Å, PM3 法では 1.582Å で,後者の方が実測に近い値であった.

4. 結語

 アントラ[1,9-b,c : 4,10-b',c']ジクロメン (1) に対する一重項酸素の付加位置は,AM1 (ま たはPM3) 分子軌道法計算で予想される12bと16bの位置であることが X線結晶構造解析の 結果から確かめられた.縮環数が多く,歪みを持つ縮合多環化合物におけるこのような研 究例は少ないが,ベンゾジキサンテン系[7, 8],ジフェナントロペリレン系[9]においても同様 の結果が報告されており,この種の計算による付加位置の予測の正当性を裏付けることが できた.

文献

1) R. Schmidt, W. Drews, H. -D. Brauer, J. Photochem., 18, 365 (1982).
2) MOPAC Ver. 6, J. J. P. Stewart, QCPE #455; Revised as Ver. 6.01 by T. Hirano, JCPE, P049.
3) 時田澄男,松岡賢,古後義也,木原寛,「機能性色素の分子設計―PPP分子軌道法とそ の活用」,丸善 (1989).
4) J. Rigaudy, Pure Appl. Chem., 16, 169 (1968).
5) R. Schmidt, W. Drews, and H. -D. Brauer, J. Am. Chem. Soc., 102, 12791 (1980).
6) I. Saito, T. Matsuura, "The Oxidations of Electron-Rich Aromatic Compounds": H. H. Wasserman, R. M. Murray ed., "Singlet Oxygen", Academic Press (1979).
7) 時田澄男, 化学総説 "有機ホトクロミック化合物の化学", 学会出版センター, 印刷中 (1996).
8) 時田澄男,内藤等 , J. Chem. Software, 2, 25 (1994).
9) K. Sakai, U. Nagashima, S. Fujisawa, A. Uchida, S. Ohshima, I. Oonishi, Chem. Lett., 1993, 577.

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