時田澄男*,内藤等
また,消色体 (2) を加熱し着色体 (1) を再生する熱発色過程では,(2a) → (1a)の反応に比較して,(2b) → (1b) の反応の相対速度が,著しく小さかった.化合物 (1a) および(1b) には,図1に示す C(4) と C(6') または C(4') と C(6) の位置に結合している水素原子同士の立体障害が予想される.著者らは,先の論文で,(1a) と (1b) の立体障害の程度の差が,熱発色過程に於ける相対速度に影響を与えていると定性的に考察した5). また,著者らは,(1a), (2a) の X線結晶構造解析について報告をした6) 7).
今回,計算化学の手法を用いて求めた (1a), (2a) の最適化構造と,X線結晶構造解析で得られた (1a), (2a) の構造を原子間距離,および,キサンテン環 A と B がなす二面角をもとに比較を行い,計算結果がX線結晶構造解析による実測値を再現するかどうかを確かめた.続いて,(1b), (2b) の構造を計算で求め,(1a), (2a) の立体障害の程度の差を,(1a) のキサンテン環 A と B がなす二面角と,(1b) のチオキサンテン環 A と B がなす二面角を比較することにより定量的に評価し,先に報告した定性的考察の妥当性を検証したので報告したい.
消色型化合物 (2a)ではキサンテン環 AとBとがなす角度が大きく (表2), 折れ曲がった屋根型構造をしている(図2右側). C(9) と C(9') は sp3 混成軌道をとっており, (2a) は(1a) の立体障害を解放した構造となっている. C(9) と C(9') の位置で (1a) の大きなπ共役系が2つの小さなπ共役系に分割された形状となっている. また, C(9)とO(15) または, C(9')とO(15') の原子間距離は一般的な C―O 単結合(1.43 Å)と比較して長く (obs.1.49 Å, calcd 1.50 Å) ,紫外線照射や加熱により, 酸素分子が脱離して(1a)を再生しやすい実験事実1,2)を構造化学的に示唆している.
SPARTAN を用いて描画した (1a) の HOMO (最高被占軌道) を 図3に示す. 計算結果では (1a) の HOMO 係数が C(9) と C(9') の位置で最大となっており, この位置に酸分子が付加する事実を説明している.
以上のように計算結果はX線結晶構造解析による実験結果を再現し,計算で得られた構造は物性予測に有効であると考えられた.縮合多環芳香族化合物に一重項酸素が吸脱
Fig. 4. Optimized geometries of (1b) and (2b)
着して,(1a), (2a) と類似の構造変化を伴う例として,ジフェナントロ[5,4,3-abcd :5',4',3'-jklm]ペリレン (3) とそのエンドペルオキシド体 (4) とからなる系があり (Scheme 2), 計算化学的アプローチが報告されている9).しかし,縮合多環芳香族化合物とそのエンドペルオキシド体からなる系で,それぞれの構造を実験的に決定し計算結果との対応を議論した報告はこれまでに知られていない.
次に (1a) の硫黄類似体である (1b), およびそのエンドペルオキシド体 (2b) について,同様に構造最適化を行なった. 結果を図4に示す. (1b), (2b)の隣接原子間距離を表3に, また (1b), (2b) のチオキサンテン環同士がなす二面角を表4に示す.
構造最適化の結果, 化合物 (1b) にも水素原子同士の立体障害が見られ, チオキサンテン環同士がわずかに折れ曲がった非平面構造を与えた. (1b) の2つのチオキサンテン環同士がなす角度は 147° (表4) であった.一方,(1a) の2つのキサンテン環同士のなす角は 153°(表2) であった.平面分子を考えた場合の二面角は 180 °であるから,(1b)は (1a) よりも折れ曲がりが大きいと解釈できる. ところで,(1b) の4つの C―S 結合の長さの平均は 1.74 Åであり,これに相当する (1a) の4つの C―O 結合の平均 (1.38 Å)よりも長い (表1, 3). (1b) の平面からのひずみが (1a) よりも大きくなった理由は,この差に基づくものと考えられる. また, エンドペルオキシド体 (2b) は屋根型構造をとり(図4), 酸素類似体 (2a) よりも折れ曲がりが大きかった.
表5に,構造最適化の結果から得られた (1) と (2) の生成熱を示す.表5から,(2b)→(1b) の反応は,(2a)→(1a) の反応と比較してエンタルピー変化が大きい.このことは,(1b) が (1a) よりもひずみが大きいことと対応づけられる.すなわち,表2,4に示した二面角は,この平面からのひずみを定量化する尺度と見なせることになる.
我々はこれまでに化合物 (2a) および (2b) を合成し, (1) と (2) のホトクロミック特性の比較をし, 報告を行なってきた6).
541 nm の波長で同じ吸光度を示すように調製した, 化合物 (1a) または (1b) の空気飽和トルエン溶液に 541 nm の光を照射すると, 赤色の溶液が無色へと変化し,光消色過程が観察された. 吸光度の変化を測定することにより, (1)→(2) の相対速度比を求めると, (1b) は (1a) に対して 0.43 倍の消色速度を示した. この結果は, (1b) の硫黄原子の重原子効果によるものと説明される.
化合物 (2a) または (2b) のキシレン溶液を加熱還流したところ,もとの着色体を再生した. 加熱時間に対する (2a) および (2b) の濃度変化を測定し, 熱発色過程 (2)→(1)の相対速度比を求めた結果を表6に示す.
表6より, (2b) は (2a) の 0.03 倍の熱発色速度を示し, (2b) は (2a) よりも, 熱安定性に優れたホトクロミック化合物であることが分かる.
Kearns はシクロペンタジエン (5) の酸素分子付加体と,シクロペンタジエンエンドペルオキシド (6) との可逆反応の相関図について報告している (図5) 10).Kearns によると,基底状態の (6) が,反応基質の (5) と一重項酸素分子を再生する反応は,図5に示す 1y0→1Y1 で表すことが出来る.一方,光励起された (6) が (5) を再生する反応は,図5に示す 3y1→3Y0 で表すことが出来るが, この場合は副反応として (6) の励起状態3y1 からラジカルを生成する反応が存在する.Schmidt らによると,エンドペルオキシ ド体 (2a) は,熱反応で酸素を放出する際にラジカルの生成は起こらず, 定量的に一重項酸素と基質 (1a) を再生する11).したがって, (2)→(1) の反応速度は,それぞれの生成熱の差で論じることが出来ることになる.先に述べたように,(2b)→(1b) の反応は,(2a)→(1a) の反応と比較してエンタルピー変化が大きい (表5).したがって, (2b)→(1b)の反応は, (2a)→(1a) と比べて反応速度が遅く, (2b) は (2a) よりも安定なホトクロミック化合物であると説明できる.
以上の様に,計算化学の手法を用いてホトクロミック化合物 (1) および (2) の構造を予測することが出来た.また構造からホトクロミック化合物の安定性を評価する手段として,表2,4に示した二面角を用いた方法が有効であることが分かった.