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Computational Molecular Spectroscopy: 高精度量子化学計算

産総研客員研究員・広島大学客員教授 平野 恒夫

(2007年3月15日 会告Vol.6, No.1)

ことは15年ほど前に、実験の川口建太郎先生と一緒に、当時懸案となっていた星間分子の未同定ラインが計算によるとMgNCのものであることを見出した時に始まる。Ab initio分子軌道法が予測した回転定数と、実験室で測定した回転定数との差が、なんと0.03%であり、精緻を極める分光学の実験に迫る計算精度を上げ得たことに感動した。そうして、そこで考えたことは、電子の挙動が原理的にはSchr?dinger方程式で記述できるとすると、分光学精度でのポテンシャルエネルギー曲面(PES)の計算さえ出来れば、分光学実験で求める事柄は全て量子化学計算で予測できる筈だということである。勿論、分光学実験の方々と共通の土俵に立とうとすれば、ab initio PESから種々の分光学定数を出すための理論的手法、つまり振動回転のSchr?dinger方程式を解くことも必要となる。かくて、ドイツのPer Jensen、カナダのPhilip Bunker達との協同研究が始まり、彼らの提唱していたComputational Molecular Spectroscopy(計算分子分光学)に私も便乗することになった。

対象は2,3原子分子であるが、やってみると2,3原子分子の高精度計算ほど難しいものはない(原子は、もっと難しいと言う人もいる)。蛋白質のab initio計算が出来る時代に、である。分子の対称性、動的電子相関、相対論効果、スピン-軌道相互作用などが表面にでてきて、多配置のCIや摂動論を適用しなければ分光学精度は得られない。おまけに、当面のテーマである第1列遷移金属を含むラジカルの計算では、開殻3d軌道に由来する擬縮退の問題もあって、どのように近似して実際に迫るかを検討するのが大変な仕事となる。醍醐味でもある。しっかりした実験値が最低1個は必要であって、それを目指して四苦八苦する訳である。それさえ出来れば、理論の強みで、他の物性値はその近似の精度内で全て引き出すことができる。この段階になると、ab initio分子軌道法はもはや壮大なカーブフィッティングみたいなもので、非経験的分子軌道法どころかCompletely Empirical 分子軌道法化している訳であるが、「理論」と言っても所詮は自然をモデル化して理解しようとする訳であるから、それでよいと私は考えている。キチンとやるべきことをやれば、キチンと分光学精度の予測が出来るので、「自然は嘘をつかない」というのが私の信条の一つになった。

分光学の実験では、レーザーを使って波数として測定するので、実験値は少数点以下5,6桁もある「高精度」な値として報告されることが多い。例えば、CoCNの基底状態3ΦのC-N結合の、ゼロ点振動を含めた結合距離r0(C-N)は少し精度が悪いが1.1313 ?と報告されている。Ab initio PESに基づいて振動回転のSchr?dinger方程式を解いて得られる波動関数のr0(C-N)の期待値は、1.172 ?であって、この値の方が合理的である。実験サイドは大振幅変角振動の効果をデータの解析に取り込めなかったために、異常に短い結合距離を報告してしまったことが分かった。今や、この種の分子でさえ、やるべきことをキチンとやれば、分光学実験よりは確かな値を出すことが出来るようになった例である。分光学実験と計算分子分光学は車の両輪のごとく相補的に機能すべきなのである。

では、何故高精度な計算にそう「こだわる」のかといえば、私の場合、その分子の結合の「本質」を理解したいからで、高精度な数値データベースを増やすためではない。Whyという質問に対する定性的な答えが欲しいために、高精度な定量性のあるデータが必要なのである。定性的な理解(Why)には、実は定量的理解(How)以上の重みがあることを忘れ勝ちなので、最後に一言述べておいた。

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