「コンピュータ化学」の教科書がほしい
創価大学工学部環境共生工学科 伊藤 眞人
(2004年6月15日 会告Vol.3, No.2)
理論でもなく実験でもなく:コンピュータ化学会が存在するからには、「コンピュータ化学」という学問が存在するはずである。この学問を一言で定義するのは困難だが、次のように書けば、その大方を取り込めるのではないかと傍目八目で考えている。「コンピュータの特徴を生かして、物質の化学的性質や物質の挙動に対する理解を深めるための新しい手法を創造する。そして、この手法を用いて、実験などの他の方法では検討不可能な対象をも含めて、物質の性質や挙動を探索する。」この範疇によれば、化学の「理論」に基づく手法を取り扱うのが計算化学であり、「実験事実」に基づく手法を取り扱うのが情報化学になる。この他に、化学情報をコンピュータで処理して化学者の役に立てるための手法に取り組む化学情報学などもある。この分野は、新しい理論の構築や新しい実験事実の蓄積に取り組むわけではないが、化学の発展にとって必要な「新しい方法論」に取り組むことを通じて、理論や実験への取り組みを支援する手法を創造する分野といえよう。これは、CICSJでも同じであり,本会の前身であるCSSJでも同じだった(化学と「方法論」についてはCICSJ Bulletin, 17(2), 2, (1999)や化学とソフトエウア, 21, 51 (1999)に書いた)。
「コンピュータ化学」を学部教育に:釈迦に説法を承知で「コンピュータ化学」について書いたのにはわけがある。このような方法論の分野が化学の世界に存在することを,なるべく早く若い世代に知ってもらう必要があるのではないだろうか。コンピュータはすでに実験や演習の中で化学の教育に定着している。そして2006年になると,小学校からパソコンになじみ,高校では「情報科」を必修で学んだいわゆる「コンピュータ世代」が大学に入ってくる。「化学の世界でコンピュータを使う」だけなら,彼らにとっては当たり前のことだろう。しかし,「コンピュータで化学する」世界は,彼らにも新鮮な世界に見えるのではないか。「コンピュータ化学」を大学の化学系学科の専門科目のカリキュラムに載せる絶好の機会である。これは本学会の今後の発展にとってきわめて重要なことではないだろうか。
「コンピュータ化学」を学部の授業に取り入れるなら,当然,「コンピュータ化学」の教科書が必要になる。この分野でこれまで出版されてきた本は,大学院生以上を対象とする専門家向けの解説書ばかりである。研究に取り組むにはこれで十分だろうが,学部学生には難しすぎる。コンピュータ化学の世界を概観し,基礎的概念を習得する入門的な教科書,2単位の講義2科目分程度の内容を納めた教科書があれば,1科目しかなければ必要に応じて取捨選択し,2科目あればほぼ全体を教えることができる。私のような一知半解の実験化学者でも安心(?)して教えられるようになる(実はこれがいちばんありがたい)。そして,コンピュータ化学会は,この教科書を作るのに最も適した唯一のグループであろう。発足から2年を経過して落ち着いてきた現在は,この学会のメンバーが将来のコンピュータ化学者の育成に取り組み始めるのに絶好の機会ではあるまいか。学会のリーダーの方々には是非とも前向きに取り組んでいただけないものか。
そして未来へ:そうそう、方法論についてこれまで書き忘れていたことがある。1945年から2003年までのノーベル化学賞59件を調べたところ,少なくとも1/4の15件は新しい方法論の創造に対して授与されている。うち2件(1981年のFukui and Hoffmannと1998年のCohn and Pople)は、コンピュータ化学の分野である。21世紀に入り、「コンピュータ世代」のコンピュータ化学者の中から,この分野の第3,第4のノーベル賞が輩出することを大いに期待したい。